山下達郎コンサートを観て考えたこと
2/11に松本市キッセイ文化ホールで開催された、山下達郎コンサートに行ってきた。近年精力的にライブ活動を行っている達郎氏だが、自分が観に行くのは約5年ぶり、また毎ツアー曲目や内容違うこともあり、今回いろいろな発見や感慨があった。その中でもある曲聴いて、山下達郎の音楽への考えが深まった体験があったので、ここに記してみたい(以下1曲分のネタばれ含むので、これからコンサート観に行くので知りたくない方はご注意ください)。
その曲とは、コンサート中盤あたりで披露された「クリスマス・イブ」。言うまでもなく、達郎氏の楽曲の中でも最もよく知られた1曲。あまりに有名なので普段そんなに正対して聴くことがない曲ではあるのだけど、今回コンサートで久々に達郎氏本人が歌うこの曲をじっくり聴き、後でその感触を反芻するにつれ、何故この曲がこれほど長く人の心に残る楽曲になったのか、自分なりに得心することができた。
まずこの曲の歌詞のテーマは、クリスマス・イブに一人でいる人物が感じる孤独、である。自分が思いを寄せる人はやって来ない、そしてその思いを伝えることも出来ない。曲の根底にはこの孤独が横たわっている。
視点を少し上方に移動してみる。歌詞の状況として設定されているのは題名通りクリスマス・イブである。ごく僅かなキリスト教徒を除いて、大多数の日本人にとっては、家族や恋人と食事をしたりプレゼントの贈答をすることが目的になっている日だろう。キリスト教にとっての「イエス・キリストの生誕を祝う」という宗教的な意味合いと対比すると、日本のそれはある種商業的な色が強い、本来の意味とはかけ離れた習慣に映る。西欧のキリスト教徒にとっては神聖な行事の一部分を、商業的に増幅した奇妙な習慣。しかし、その借り物の喧騒に賑わう街の中で、この歌の人物が抱く孤独は、紛れもない事実である。この街の賑わいがいつの間にか作り出された奇妙な習慣だからと言ったところで、胸に抱く孤独は消える訳ではない。
ここで山下達郎の音楽自体に、目を移してみる。達郎氏の音楽の源流は、欧米の大衆音楽全般である。毎週日曜日、自身のラジオ番組「サンデー・ソングブック」で披露されている通り、その造詣は深い。そしてその音楽への造詣と愛を基につくられる達郎氏の音楽は、録音においてもライブ演奏においても、隙を見せず比類のない高いクオリティーを保ち続けている。ドゥーワップにロックンロール、ソウル/ファンク etc・・・。しかしその全てはどこまで行っても、欧米からの借り物なのだ。その借り物に、音韻も一音に対する情報量も異なる日本語の歌を乗せた、奇妙な音楽。
こうして見ると、クリスマスが日本人にとって借り物の習慣であること、そして山下達郎の音楽が欧米の大衆音楽を借りている、という構造は一致しているのではないかと仮定してみる。ではその上で、「クリスマス・イブ」という曲が聴き手に与えるものとは何なのか。
この曲のアレンジにおける白眉は、曲の中間部にあらわれる「パッヘルベルのカノン」を引用したというアカペラ・コーラス部分である。街の中を歩いていくようなテンポの8ビート、控えめな曲調の中で、一瞬だけ突如光が降り注ぐような8小節。孤独を描写し、救いが提示されるわけでもない歌詞を持ったこの曲が、自己憐憫に陥らず、孤独の中での矜持とも言えるような感触を残すのは、このコーラス部分に拠るところが大きいのではないか。
しかし、繰り返すがそのアレンジも言ってみれば欧米からの借り物である。だが、「スウィングル・シンガーズのスタイルを一人アカペラでやろうとしたことから8小節に48テイクを要し、半日費やされた」というエピソードに表れている達郎氏の音楽への執念とそれを実現する力量は、このパートで音楽が生み出す美しさ・崇高さとして確かに結実している。山下達郎の音楽は、スタイル/様式の向こう側にある、音楽が聴き手の感情に作用する核のようなもの、に常に到達しようとしているように思う。
日本に生まれ落ち欧米の大衆音楽に魅せられた山下達郎が、そのスタイルを借りながら、音楽の奥底にある感情に作用する核を掴み、聴き手の心を震わせているのだとしたら、クリスマス=借り物の喧騒の中で、だが確かに感じる孤独の感情、という状況が設定された「クリスマス・イブ」は、山下達郎の音楽の魅力を最も伝える楽曲となったのではないか、というのがこのテキストで提示したい仮説である。
ヒットの要因に、あの有名なJR東海のコマーシャルでの楽曲使用は勿論あるのだが、ヒットという現象を超え、大くの日本人の心に長く残る楽曲になったのには、上記のような理由も一因としてあるのではないか。大瀧詠一は、山下達郎を「『クリスマス・イブ』で日本の歌謡史に残る人」という趣旨で評していたが、音楽などの文化のみならず政治状況的にも常に欧米の影を感じる日本人の心に響くものがこの楽曲にはあると思う。
与えられた、あるいは決められたかのように見える状況を超えていく様が刻みつけられた山下達郎の音楽は、同じようにこの日本で生きる蒼氓(=民。達郎氏の名曲のひとつ)たる我々を常に勇気づける。
とここまで考えたら、今まで達郎氏が、例えば「ブライアン・ウィルソンと一緒にレコードをつくらないか」などの海外からのオファーに関して「興味がない」と断っていたのは何故だろうと思っていた疑問が、分かった気がした。
山下達郎は、明確に我々日本人に届けるために、その音楽をつくっているのだ。
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(以下余談。今回「クリスマス・イブ」聴いて、この着想得たのは、ちょっと前に「クリスマスの商業化」をテーマとしたスヌーピーのアニメーション “A Charlie Brown Christmas” 邦題「スヌーピーのメリークリスマス」を見ていたのが大きい。こちらも素晴らしい内容。)